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南蛮の風、南蛮の道


こんなに興味深い時代だったとは
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大分発facebook「キリシタン・南蛮文化発信プロジェクト」について

「南蛮」をキーワードにこのブログを管理している私。
何か面白いことはないかといつもアンテナを張っているのですが、
九州で面白い動きがあることを発見しましたのでご紹介します。

大分県では各地で南蛮文化を掘り起こしていこうという動きがあります。
面白いのは、2014年2月から大分市を中心とした複数の自治体がfacebookを利用して、
互いにわが町の南蛮文化自慢(?)を楽しそう~に発信、情報交換しているのです。

第三者も閲覧することができます。
友達登録をするともっといろいろな記事を見ることができるのでしょうか?(不明)

九州の南蛮文化にご興味のある方、チェックされてみてはいかがでしょうか。
↓↓
facebook キリシタン・南蛮文化発信プロジェクト

私は湯布院のキリシタン墓地を訪れて記事にしたことがあるのですが、
湯布院はなぜかこのグループに入っていないんですね、不思議・・。
by rond-point66 | 2014-05-06 19:11 | 南蛮の風紀行

アレッサンドロ・ヴァリニャーノ(4)日本人の悪

1579年に初来日したヴァリニャーノ。
彼は、巡察師として、日本人の良いところばかりを報告していたわけではありません。
報告書ですから、日本布教の現状や問題点、今後の方向性などをローマに報告しなければなりません。そこで分析の対象となっているのがキリスト教の教義に照らして<日本人の悪>とされたものです。
以下のようなことを当時のヴァリニャーノはローマに報告しています。
こんなところからも、戦国時代の日本人の様子が浮かび上がってきます。
『日本巡察記』(ヴァリニャーノ、松田毅一他訳、東洋文庫、2009)から一部抜粋します。


1.色欲上の罪に耽ることである。日本人は自分の妻を信頼しているから、妻が不義を犯すというようなことは、ほとんど考えない。最悪の罪悪は、この色欲の中でもっとも堕落したものであって、これは口にするに堪えない。彼らはそれを重大なこととは考えていないから、若衆達も、関係のある相手もこれを誇りとし、公然と口にし、隠ぺいしようとしない。


⇒あのザビエルも衝撃を受けた「同性愛」。


2.主君に対して、ほとんど忠誠心を欠いていることである。主君の敵方と結託して、都合の良い機会に主君に対し反逆し、自らが主君となる。反転して再びその味方になるかと思うと、さらにまた新たな状況に応じて謀叛するという始末であるがこれによって彼らは名誉を失いはしない。事情かくのごとくであるから、自領に安堵して居れる者は皆無であるか、あるいはごく僅かであり、我らが今見るように激しい変転と戦乱が続いているのである。


⇒これは現代でも職場という戦場で脈々と続いて・・・いるような。


3.(日本人は)陰険に偽り装うことや、胸中に考えていることを外部に覚えられないような態度をとることを思慮深いと思っている。もしこの信条を真実の思慮の規範によって是正するなら、それは賛美に価するものとなるであろう。



⇒これは反対に、日本人が大声でののしり合ったり、罵詈雑言を浴びせたりといった下品なことをしないでじっと耐え忍ぶ姿に、品を感じるというようなことも書き残しています。


  4.はなはだ残忍に、軽々しく人間を殺すことである。些細なことで家臣を殺害し、人間の首を斬り、胴体を二つに断ち切ることは、まるで豚を殺すがごとくであり、これを重大なこととは考えていない。・・(省略)・・戦乱の際には民家を焼き民衆を殺戮し、その偶像の寺院といえども容赦しない。立腹したため、あるいは敵の掌中に落ちないために自ら腹を断ち切って自害することも容易に行う。もっとも残忍で自然の秩序に反するのは、しばしば母親が子供を殺すことであり、流産させる為に、薬を腹中に呑みこんだり、あるいは生んだ後に(赤子の)首に足をのせて窒息させたりする。これは子供を育てる苦労を免れ、あるいは貧困のために多数の子供を育てられないからだけでなく、仏僧等自体にも少なからぬ責任があることである。


⇒子殺しについては現代も同じ問題がありますが、この時代を非難することは現代の日本で生きる私たちにはできません。現代人は受胎後の胎児に対し人と見做さない時期を人為的に作り、生を見ることなく他人の手によりそれを簡便に済ませているだけです。
この人為的線引きというのは違う形で当時の日本にもありました。生まれた子どもは七歳までは神と人の中間の存在として見做すという宗教観があったのです。「ななつの御祝い」というのがあります。それは死なずに七歳まで生きぬく子どもが少なかったためであり、一方で七歳までを人と見做さないことによって子殺しを含む様々な要因で命を落としていく子どもたちがいる現実を合理化するものであったと考えられます。全く異なる倫理観を持っていたヴァリニャーノらには、大変残酷な光景に映ったと思われます。

  
5.飲酒と祝祭、饗宴に耽溺することである。その為には多くの時間を消費し、幾晩も夜を徹する。・・(省略)・・この飲酒や類似の饗宴、過食は、常に他の多くの堕落を伴うので、これによって日本人の優秀な天性がはなはだしく損なわれている。

   

⇒貧しく不安定な時代でしたが、日本人の楽しそうな酒盛りについてはこの書簡以外でも時々記述を目にします。
by rond-point66 | 2014-03-04 14:00 | 南蛮の風紀行

湯布院、キリシタン墓地

湯布院は日本屈指の人気温泉地。

磯崎新氏設計、由布院駅舎。
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駅を背にすると、真正面に夏の美しい由布岳が見えた。
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由布院のキリシタン墓群。
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解説の看板。
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解説全文引用
     
由布院(峯先)のキリシタン墓群   

当地のキリシタンは、約四一〇年前の天正八年(西暦一五八〇年)湯布院郷士の一人、奴留湯(ヌルユ)左馬介が部下とともに洗礼を受けた事にはじまる。
 その翌年には、伝道所が設置され天正一四年には立派な教会堂が建てられ、領主フランシスコ大友宗麟の庇護もあり、信者は一五〇〇人とも二〇〇〇人とも言われた。しかし徳川幕府の禁教により、慶長一九年(西暦一六一四年)以降、きびしい「宗門改め」が行われ、キリシタンは一応終えんしたが、いわゆる隠れキリシタンとなった者も多くいた。
 歴史を物語るように町内には、多くのキリシタン墓があるが、一番多いのがこの並柳・峯先墓地で十字章のあるもの三〇基、隠れキリシタンのものと見られるもの四〇基があり、苔むした墓に昔の面影が偲ばれる。

                     湯布院町教育委員会



お盆過ぎということもあるのか、
お墓の周りはきれいに清掃が行われていた。
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名もなき人の墓が歴史の世界へといざなう。

どのような最期であったにせよ、信仰を貫いて人々に見送られ、
今もこうして地域の人びとに大切にされている幸せなキリシタンの墓だ。

キリスト教を日本人なりに受け入れ、
数代にわたって素朴に継承してきた信仰の記憶が、消えることなくここにある。

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by rond-point66 | 2013-10-15 18:35 | 南蛮の風紀行

目黒・大聖院のキリシタン燈籠

西村貞「キリシタンと茶道」(昭和23年、全国書房)には、
大聖院の場所が【目黒行人坂上】と書かれている。
坂上というとどうしても目黒駅の方だと思ってしまうのだが、
実際は坂の下、
目黒通りと山手通りの交差点にある大鳥居神社の隣にある。

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入ってすぐ。三つ並んでいる。

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目黒区HPには、
「松平主殿頭の屋敷内に三基の異様な灯ろうがあった。
この灯ろうは大正15年に大聖院(目黒区下目黒三丁目1番)に移されたのだが、
それが十字の型をした切支丹灯ろうであることがわかり、
この地が潜伏切支丹の遺跡ではないかと大騒ぎになったのである」と書かれていた。



向かって左の上の部分。
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冒頭の書に目黒にまつわるこんな話が書かれていた。
原胤昭の二男鶴麿氏は田町の智徳寺の調査の最中に、
目黒行人坂付近が当時江戸を追放された切支丹の徒の巣窟であった
ことを知ったという。

更に氏の談話としてこう紹介されている。
目黒付近には当時の切支丹のかくれ家が多かったといふことは云ひ得るわけで、
行人坂という名もそれから出たらしい。
付近の萬(幡)龍寺からはぬけ穴らしい洞窟も発見されており、
昔の人はよく目黒女を嫁に取ると呪ひ殺されるといふようなことを言ったものである。
おもふにキリシタンの教へを奉じた目黒女が十字架を拝する、
それを指したものではないであらうか


ついついキリシタン文脈で思考してしまいがちな私も、
江戸時代に忌み嫌われていたという【目黒女】については同じことを考えたことがあった。
本当かどうかわからないが、
同じことを考えた人がいたんだと思い、
苦笑してしまった。
当方、現役の【目黒女】である。
信仰はないが。


さて、燈籠に話を戻すと、
真ん中の燈籠の側面に、文字が彫られている。
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前述の書には、なぜか、
向かって左端の左右側面に、文字が彫られていると書かれている。
(右)錦上鋪花 又一重(二行)
(左)岩松旡心 風來吟(一行)

私の記憶では左端ではなく中央の燈籠の左右側面だったと思う。
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解説
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*)キリシタン燈籠に対しては様々な議論が存在します。
議論の歴史と詳細については、西岡宗則氏の「キリシタン燈籠再考」に詳しく書かれているのでご興味のある方はどうぞ。
ここでは、南蛮の風を受けて生まれたものとしてご紹介しています。
by rond-point66 | 2013-06-27 16:08 | 南蛮の風紀行

目黒・大鳥神社のキリシタン燈籠

目黒、大鳥神社。

目黒駅から徒歩10分ほど、
目黒通りと旧山の手通りとの交差点にある。

ちょうど茅の輪くぐりの時期

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くぐる時に、

「水無月の夏越の祓えする人は 千年の命のぶとこそきけ」と和歌を唱えるそう。




さて、

目黒通り側から入ってすぐに、キリシタン燈籠がある。

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下半分アップ。

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解説文

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>もとは千代が崎(現在の東京都教職員研修センター付近)大村邸内にあった

目黒区HPによると、
千代が崎は「昭和7年以前まで目黒町の字名として使われていた」地名で、
「権之助坂上から恵比寿方面に向かい、区立三田児童遊園(目黒区三田二丁目10番)辺りまでの目黒川沿いの台地」一帯で、大村邸は現在の東京教職員研修センター(目黒区目黒一丁目1番)辺りにあった。
肥前島原藩主松平主殿守は、「三田・上大崎・中目黒・下目黒にわたって広大な敷地を有」していたという。



寛永・正保・慶安のころから江戸中期にかけて作られたと考えられている




この神社の隣の大聖院にも肥前島原藩主松平主殿頭の屋敷内にあったキリシタン燈籠がある。

それは、次の記事で。

*)キリシタン燈籠に対しては様々な議論が存在します。
議論の歴史と詳細については、西岡宗則氏の「キリシタン燈籠再考」に詳しく書かれているのでご興味のある方はどうぞ。
ここでは、南蛮の風を受けて生まれたものとしてご紹介しています。
by rond-point66 | 2013-06-27 15:51 | 南蛮の風紀行

東京、札の辻

JR三田駅前の国道15号を神奈川方面へ右側歩道を歩いていくと、

札の辻交差点がある。


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交差点を抜けて更に進み、

↑の画像右手に見える茶色の高層ビル(住友不動産ツインタワー西館)まで進むと、

手前に広場があり、

その奥の階段を上っていくと「都旧跡 元和キリシタン遺跡」がある。


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解説
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周囲はすっかり開発されていて、

ここだけが密やかな異空間のよう。

しかし当時は、

江戸の入口であった賑やかな辻の、

海が見渡せる小高い丘の上という、とても目立つ場所だったようだ。



ここは10年と少し前に再開発された際に庭園として整備されたとのことだが、

丘の上の遺跡へ向かう長い階段を配したデザインには控えめな美しさがあって、印象的だった。

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by rond-point66 | 2013-06-14 10:38 | 南蛮の風紀行

京都、一条戻橋

一条戻り橋。現在のものは1995年(平成7年)に架け替えられたものだそうです。
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先代の一条戻橋の親柱は、近くの晴明神社に残されています。
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*memo*
この晴明神社は陰陽師や利休と縁のある、由緒ある神社です。


 
一条戻橋の近くで、
秀吉によって、
千利休の首がさらされ(1591)、
長崎に連行される前の26聖人殉教者がみせしめの拷問を受け(1596)ました。

今はすっかり変り果て、
そういう歴史の匂いや面影をここで探すことはできません。

整備された堀川が、このように細々と流れています。
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by rond-point66 | 2013-04-21 11:02 | 南蛮の風紀行

モンマルトルの丘で

パリ、モンマルトル。
いつも大勢の観光客で賑わう有名な観光地です。

wikipediaより
モンマルトルの名は、『Mont des Martyrs(殉教者の丘)』が由来である。
紀元272年ごろ、この丘の付近で、後にフランスの守護聖人となったパリ最初の司教聖デニス(サン・ドニ)と二人の司祭ラスティークとエルテールの3人が首をはねられて殉教したと伝えられている。


そのモンマルトルの丘の頂に建つサクレクール寺院 (Basilique du Sacré-Cœur de Montmartre)。


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(2006、パリ、モンマルトルの丘の階段)

パリの建物って何でも古そうに見えますが、
この寺院、完成したのは20世紀に入ってからとパリの名所の中では比較的新しいです。



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(2006、パリ、サクレクール寺院)


今日は、この、日本人観光客がよく行くモンマルトルと日本をつなぐお話を書きたいと思います。




まだサクレクール寺院がなかった16世紀、
モンマルトルの丘の中腹にベネディクト女子修道院、サン=ドニ聖堂がありました。
そこで、
後に日本に大きな影響を与えることになる、ある出来事がありました。


1534年。


当時、ヨーロッパの神学の中心であったパリの
サント・バルバラ・コレジオで学んでいたイグナチオ・デ・ロヨラら7人が、
聖堂に集まり、誓いを立てました。
このコレジオは今もパンテオンの近くに残っていて、
建物内には彼らの肖像画が飾られている部屋があるそうです。


この7人のメンバーは、
8月15日、この地で、清貧、純潔、貞潔、
そして、
エルサレムへの巡礼を誓いました。


彼らは、
エルサレム巡礼に関しては、もしこれが叶わなければ、
ローマ教皇の命じる地ならいかなる場所へも赴くという条件をつけました。


この誓いは、
「モンマルトルの誓い」と呼ばれ、


これをもって、
あの、イエズス会が産声をあげました。


その後、
エルサレムへの巡礼は、国際情勢の悪化から断念することに。
彼らは、1540年、
ローマ教皇パウルス三世から承認を受け、
カトリック修道会として、晴れて堂々と活動することができることになりました。


しかし、その会は、従来の会とは違っていました。
主に使える兵士であることを自ら名乗ったからです。
彼らは、軍隊(中隊)でもありました。


スペイン国王は彼らの受け入れに難色を示しましたが、
彼らに目を付けたポルトガル国王ヨハン三世は、
受け入れることを表明。


7人の出身国はバラバラでしたが、
早速、ポルトガルの宣教師として世界各地へ派遣されることになります。
彼らはアフリカ、アジアへ向かって旅立ちました。


その中で、最後に派遣を命じられたのが、
モンマルトルの誓いに立ち会った7人の中の一人、
フランシスコ・ザビエルです。
彼は東方へ行く宣教師として選ばれたわけではなくて、
たまたま空いた席に補充されただけだったのですが、
これによって、
ザビエルは思いがけずインドへ向かうことになりました。


当時インドでの宣教は大変困難だったようです。
多くの言語や階級のあるインドでの布教は一筋縄ではいかなかったのですね。
布教に行き詰まりを感じていた時、
ザビエルは日本人アンジロー(漢字は今も不明)と偶然出会います。
アンジローからの日本情報で、
ザビエルは日本布教を新たな目標とします。
アンジローは薩摩の貿易商人だったと言われています。


ザビエルが同志らとあのモンマルトルの丘で誓いを立ててから15年経った1549年、
彼は、東の果ての小さな島国、日本に上陸するのです。
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これからパリ観光へ行かれる皆様、
今は賑やかなモンマルトルの丘の上ですが、
パリを見下ろしながら、
是非この歴史に思いを馳せてみてください。




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by rond-point66 | 2013-04-21 11:00 | 南蛮の風紀行

東京八重洲北口遺跡

東京駅の地下街を歩いていて、突然ヤン・ヨーステンに遭遇。
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八重洲は、ヤン・ヨーステンの名前からきているという。
ヤン・ヨーステンを何度繰り返してもヤエスにはならないと思っていたら、
ヤン・ヨーステンが日本名で耶楊子(ヤヨウス)になって、そこからヤエスになったという。
胸のつかえがとれた(笑)

土台に書かれていた解説:
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今、千代田区に八重洲の地名はない。
JRの八重洲口、八重洲通りといった形で使われているだけである。

今の八重洲といえば・・・。

2003年7月に提出された調査報告書『東京駅八重洲北口遺跡』によると、
2000-2001年にかけて2期にわたって行われた調査で、
調査区南西部において10基の墓坑が確認されたのだという。

そのうち4基に木棺が認められ、
6基では土坑内に直葬され、
人骨全てが仰臥伸展の状態で埋葬されていること、
木棺一基の側板(蓋裏)に墨筆の十字架が見られ、
金属メダイとガラス製(49点)および木製ロザリオ木玉(2点)が
出土したことなどから、
本墓坑群がキリシタン墓地であると判断されている。

引用
『キリシタンの考古学』所収
「キリシタン遺跡からみたキリシタン宣教」 五野井隆史




家康は海外貿易を目指してフランシスコ会を受け入れ、
1599年に家康に付与された敷地には、教会が建造されていた。
修道士は1601年に、
当時、刑場に近く最下層民が居住していた浅草鳥越に施療院を開設。
教会の所在地は定かではないという。
江戸でフランシスコ会が平和的に広がったのは、
10年と少しということになる。

信仰の長さに深さを比例させるのは甚だ不謹慎なのだろうが、
世代を越えて信仰が継承された九州などに比べると、
江戸キリシタンは、
生活や人生すべてがキリスト教にがっちりと組み込まれるには
まだまだ時間が足りなかっただろうと思う。
幕府の御膝元であったし、
禁教令が出るとキリシタンははかなく霧散し、
信仰具などはあっさりと消えていったことだろう。

そんな東京の、それも開発の限りを尽くされた東京駅周辺で、
遺跡が出て来るとは・・・。

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by rond-point66 | 2013-01-06 11:02 | 南蛮の風紀行

京都大徳寺、細川ガラシャ

京都、大徳寺へ行って来ました。

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石田三成の目の前で炎に包まれたガラシャ夫人は、
夫の細川忠興(三斎公)によって堺のキリシタン墓地に葬られるのですが、
徳川時代にキリシタン墓地はことごとく破壊されます。
現在、ガラシャの墓は、
遺骨を移したとされる大阪の崇禅寺、京都の大徳寺、熊本の泰勝寺などにあるそうです。

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(京都、大徳寺高桐院にある細川ガラシャの墓)

~高桐院パンフレットより引用~
「三斎公及びガラシャ夫人の墓石は、生前愛好した石灯篭をもってそれに当てた。
細川家の墓所の中にこの鎌倉時代の美しい灯篭墓石は、苔を褥に静かに備わっている。
これはもともと利休秘蔵の天下一の称ある灯篭であったが、
豊太閤と三斎公の両雄から請われて、
利休はわざと裏面三分の一を欠き、疵物と称して秀吉の請を退けた。
のちに利休割腹の際、あらためて三斎公に遺贈したもので無双という銘を持ち
また別名を欠灯篭ともいう」
by rond-point66 | 2012-12-21 11:26 | 南蛮の風紀行

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