南蛮の風、南蛮の道
高山右近没後に妻子ら帰国 宣教師 書簡に記す
中日新聞記事より
高山右近の子孫が日本に戻っていることは以前から知られていました。
高山家の末裔は現在、石川県志賀町、大分県に存在するとされ、
今回の発見は石川県への帰国を裏付けるものとなりました。
横山康玄は右近の娘ルチアと結婚しているので、
洗礼を受けていたと考えられています。
当時家臣の間にもキリシタンは広まっていて、
金沢の教会は大変賑わっていたといわれています。
1613(慶長18)年12月、
徳川幕府は伴天連追放令を発します。
1614(慶長19)年、1月、
右近は一族を連れて金沢を去ります。
その際に、
娘ルチアと康玄の二人は離縁させられました。
双方がキリシタンだとすれば離縁は考え難いのですが、
康玄が加賀藩の重臣横山家の嫡子であったことなどから、
様々な計らいがあったのでしょう。
この同じ年(慶長19年)2月に、
横山長知とその子康玄が突如出家し比叡山に出奔し上方方面を流浪し、
その半年後、大坂冬の陣に出陣していた前田利常に帰参を許された・・
という書き込みを見かけたのですが、出所はわかりません。
もしどこかにこの記述が残っているのなら、興味深い話だと思います。
今回、帰国して密かに会っていたという記述から、
二人の離縁は引き裂かれるような今生の別れであったと考えることができます。
康玄にとってはマニラへ向かったルチアとの再会は夢のまた夢であったと思いますし、
密かな再会にも、大変なドラマがあったと思われます。
その後、父長知はキリシタン弾圧の指揮を執ることになります。
康玄は正保2年9月(1645年)に55歳でなくなっています。
キリシタンの時代に大きく翻弄された人物の一人であることには違いありません。
金沢の元教会職員が調査
キリシタン大名の高山右近が江戸時代に国外追放された際、ともにフィリピンに渡った娘のルチアら家族三人が、一六一五年二月に右近が病死した後にマニラから帰国していたことが、元カトリック金沢教会職員木越邦子さん(70)=金沢市=の調査で確認された。ポルトガル人宣教師が書簡に三人の帰郷を記述していた。右近の没後四百年を前に、新たなキリシタン史が掘り起こされた。(沢井秀和)
書簡には「そこ(加賀藩領内)には、かって右近殿もともに滞在していた。われらの主は、彼をマニラで御許(おんもと)に召したもうた。彼の妻、娘および、孫たちの一人は日本に戻ってきており、秘密にしているが、キリスト教徒である娘の婿が彼らに会った」と記述されていた。
書簡は一六一六年七月十八日付で長崎から発信され、宣教師が別の神父による加賀領内の報告としてポルトガル語で記していた。娘はルチア、妻はジュスタ、孫はフランシスコ(ともに洗礼名)とみられる。
ルチアの夫は、加賀藩の重臣横山長知(ながちか)の嫡子康玄(やすはる)。洗礼を受けていたが、前田家を追放されることになった右近からルチアと離縁するよう説得され、受け入れて以来、両家は決別したというのが定説だった。長知は一六年八月に別の重臣と領内のキリシタン禁制の高札を出している。
書簡はスペインのトレド文書館に保存されており、木越さんが、撮影された原文の写しを手に入れ、慶応大の高瀬弘一郎名誉教授(キリシタン史)が翻訳した。成果はキリシタン文化研究会報に発表された。
ルチアがマニラに向かう際に子どもを預けた伝承が石川県志賀町二所宮にあり、木越さんは「ルチアが帰郷後に能登にかくまわれた可能性がある。記録が残されていないのも藩が隠した証しでは」と推定。
高瀬名誉教授は「三人が帰国したという事実は大きい。離縁した夫と会ったことも興味深い」と話している。
高山右近 1553?~1615年。現在の大阪府豊能町高山に生まれ、高槻城(大阪)や明石城(兵庫)の城主だった。バテレン追放令で、1588年から加賀前田家に26年間にわたって預けられ、金沢城を修復し、高岡城を設計した。カトリック関係者が現在、「聖人」とする運動を繰り広げている。
高山ルチア 1591~?。右近の娘。1603年に12歳で横山長知の嫡子康玄(1590~1645年)と結婚した。長知が前田家内で頭角を現し、右近も重用されて親しくなったとみられる。長知、康玄は、前田家が改易の危機を迎えた際、徳川側にそれぞれ弁明し、あらぬ疑いを晴らしている。
高山右近の子孫が日本に戻っていることは以前から知られていました。
高山家の末裔は現在、石川県志賀町、大分県に存在するとされ、
今回の発見は石川県への帰国を裏付けるものとなりました。
横山康玄は右近の娘ルチアと結婚しているので、
洗礼を受けていたと考えられています。
当時家臣の間にもキリシタンは広まっていて、
金沢の教会は大変賑わっていたといわれています。
1613(慶長18)年12月、
徳川幕府は伴天連追放令を発します。
1614(慶長19)年、1月、
右近は一族を連れて金沢を去ります。
その際に、
娘ルチアと康玄の二人は離縁させられました。
双方がキリシタンだとすれば離縁は考え難いのですが、
康玄が加賀藩の重臣横山家の嫡子であったことなどから、
様々な計らいがあったのでしょう。
この同じ年(慶長19年)2月に、
横山長知とその子康玄が突如出家し比叡山に出奔し上方方面を流浪し、
その半年後、大坂冬の陣に出陣していた前田利常に帰参を許された・・
という書き込みを見かけたのですが、出所はわかりません。
もしどこかにこの記述が残っているのなら、興味深い話だと思います。
今回、帰国して密かに会っていたという記述から、
二人の離縁は引き裂かれるような今生の別れであったと考えることができます。
康玄にとってはマニラへ向かったルチアとの再会は夢のまた夢であったと思いますし、
密かな再会にも、大変なドラマがあったと思われます。
その後、父長知はキリシタン弾圧の指揮を執ることになります。
康玄は正保2年9月(1645年)に55歳でなくなっています。
キリシタンの時代に大きく翻弄された人物の一人であることには違いありません。
by rond-point66
| 2014-06-02 09:44
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